見出し

エルミル・ニカ 『罪びとたちの夜』

干し草花

 N村の地元新聞に、市民ソクラト・パスカリが前の晩遅く、公共秩序破壊の容疑で警察に拘束されたというニュースが載った。この通知は大して注目されることもなくやり過ごされたが、恐らくそれは、こうしたニュースが広範な大衆にセンセーションを生み出すようなものではなかったからだろう。こうした通知の代わりに、政治の発展ぶりや、また言うまでもなく、そんな人民大衆の注目を集めるような流行の人々に関するゴシップのニュースが報じられるようになるのも、至極当然のことだろう。そういうやり方が新聞の部数を伸ばすことにつながるし、またそのことが、こうした報道機関の経営者にとって大きな経済的利益を引き出すことになる。総じて世論というものは、都会から届く煽情的なニュースの見映えの良さに注目するものだ。そのことが、範囲も人数もごく限られているとは言え、共和国の全体を為す部分であるこの地方での生活を向上させることに対する、国家機構の注目を低下させることにもつながるのである。
 それでも公安機関は引き続き、高い意識によって義務を果たしていた。捕まったソクラト・パスカリは冷たい独房でひと晩を過ごした。翌朝、看守が小窓を開け、見慣れない男を見てみると、その男は何かで頭をぶん殴られたように眠り込んでいた。すると急に、扉の掛け金をガチャガチャ下ろす音と、鎖をジャラジャラ引きずる音がした。捕らわれた男は腫れぼったい両眼を開いた。目の前に、制服姿が二人立っていた。
「立て!」という声が聞こえた。
「ここは何処だ?」魂の抜けたような声でソクラトが訊ねた。
「ようこそ地獄へ!」相手が険しい口調で返事をした。
 ソクラトが目をぱちぱちさせている内に、二人はその両腕を摑み、しっかりと手錠をかけてから歩き出した。そのまま三人は互いに密着して、先へ進んだ。間もなくドアが開いて、別の部屋の中に入ったが、そこの壁には目にしみるような白い石灰が塗られていて、ところどころに血が飛び散っていた。辺りには重苦しい匂いが立ち込めていたが、恐らくそれは、ひび割れたペンキの上にこびりついた血痕からのようだった。三人の前に幅の狭いテーブルがあって、その向かいには背が高く、痩せぎすで、青い目の男が、ぴんと胸をそらして座っていた。
「座りたまえ!」男はソクラトに厳しい視線を向けたまま指図した。それでソクラトは、手を繋がれたまま、おずおすと指示に従った。取調官はソクラトを、無言のままじっと見つめていた。それから警官二人に何か合図し、二人が前に歩み出るとこう言った。
「手錠を外してあげなさい!」
警官たちは一人、そしてもう一人して、上司の指示に従った。ソクラトはおどおどした眼つきのまま、手錠で強く締め付けられて赤くなった手首を軽くさすった。
「被疑者ソクラト・パスカリ、君は公共秩序破壊及び器物損壊の容疑で拘留された。被疑者としてどういう事情でこういった違法行為を犯すことになったのか、聞かせてくれたまえ」
 ソクラトは両肩をすくめると、蒼ざめた唇を少しだけ引き締めた。
「どうお答えしたらいいか、わからないんですよ刑事さん。ゆうべは遅くまで、ひどく落ち込んでましてね、陽はとっくに沈んでて、町じゅうが夜に覆われて、ちょっと散歩にでも行かないとやっていられない感じだったんです、いや何処へとは考えていなかったんですが。それでこう、何とはなしに、気の向くまま出かけたんです。それで、全くのたまたまで、一軒のバーの入口の前まで来たんです。外から覗いてみると、見知った顔が二人、座って楽しそうに飲んだり煙草をふかしているのがやっとこさ見えたんです。あいにく名前は憶えてないんですが、でもそれは別に私にとっては大したことじゃなかった。それでドアを押して店の中へ入りました。その顔見知りたちと一緒になって、気楽に一杯やることにしたんです。どう説明したらいいのかわからないんですが、ただひどく喉が渇いて、それで飲みたかったんです。しばらくすると、私はテーブルに一人きりになっていました。他の連中は、どうも、帰ってしまったみたいでした。自分がいることが邪魔になったかもなんて、これっぽっちも思いませんでした。ウェイターが、もう時報が二十四時を告げたから店を閉めなきゃならないと言ってきました。それでまあ自分からそうしたんだかどうだか、とにかく路上に出たんです。我ながら、恥をかいたような気分になりまして。憂さを晴らしたいと思いました。私は町の通りから通りへとふらふら歩いていました、今となっては何処だったか、はっきりとは申し上げられないんですが。その途中で何人かと出くわしたんですが、そこにも顔見知りがいました。ただ一つだけ、はっきりしないことがあるんです、その行き止まりになったところで出会ったあの生き物たち、あいつらは普通の人間だったのか、友達だったか、それとも私の本の登場人物だったのか。そのことは、今も私にはうまく説明が出来そうにないんですが、ただ自分が急いで、大急ぎで駆け出して、どこかに辿り着いたことだけは分かっています。その後は、全く何も憶えていません。何か忌まわしい連中の姿に追われていたんです、そいつらは次々と、気付かれずにこっそりと、希望も何もない、卑屈な顔で、一日の終わりまでそんなことをやっていた。分かりますか?一日の終わりまでですよ。これは致命的だ。自分が涙で押しつぶされて、魂までしなびてしまいそうでしたよ。もうだめだ、これ以上は、こんな状態にずっと苦しめられる、もう我慢できないって、信じてくださいよ・・・」そう言ってソクラトは頭に掌をやった。
「それじゃ」取調官は気乗りのしなさそうな口調で言った。「私が出来事の流れに従って、時系列に沿って並べてみてもいいかね。まさしくヒステリー状態に、町の真ん中で君は陥っていたのだよ、それも町庁舎と裁判所の間で。君は捕まった時、こう言っていた。『君主どもよ、死刑執行人どもよ、偽善者どもよ。ハーデース[訳註:ギリシア神話における冥界の王]の王国の木製の階段よ。お前たちは過ぎ去りし時に為すすべもない。大いなる裁きの時が来たのだ』と。その後で、君は何軒かの銀細工店のショーウィンドウを割っていったのだが、不思議なことに君は、歩道の上に散らばった商品には何一つ手をつけていない。そのことが、周りの建物の壁際やカーテン越しに顔をのぞかせていた人達の困惑と好奇心を掻き立てた。それから、一連の騒動が起きた現場へと向かう警察のサイレンが聞こえてきた。警察のサイレンを耳にすると人々は、目撃者として名簿に記録されるのを避けようとその場から退散したのに、君はその場を立ち去ろうともしなかった。その時の君は、石か何かで出来てでもいるように突っ立ったまま、近付いてくる者たちに荒々しい視線を投げかけていた。それなのに、いかなる形でも君は、抵抗なり攻撃なりするような素振りひとつ見せなかった、それは君にとっては些か有利な状況だよ。それから君はうちの警官たちに拘束され、手錠をかけられた。運の悪いことに、君はショーウィンドウのガラスで手を切り、出血していた。そのことで司法担当者たちの仕事が厄介なものになった。警察車輌へ連れて行く途中、君は出血多量で意識を失ってしまったのだ。その最中でも、君はうわごとのようにこう言っていたよ。『災厄の従者よ、汝らはおのが身を縛るがいい。神の御慈悲が汝らの上にあらんことを!』とね」
 ソクラトはその間じゅう座ったまま、何も言わず、否定もせず、何の素振りも見せようとせず、ただ聞いていた。彼は自分の手を仔細に吟味し、前腕に巻かれた包帯と、その上に浮き出たヨードチンキのどす黒い染みをじっと見つめていた。
「質問を続けさせてもらうよ」ゆったりとした口調で取調官が言った。「生まれは何処だね?」
「ザゴリです。山あいの村で、そこはペルメトとテペレナとジロカスタルの間の辺りです」
[訳註:いずれもアルバニア南部の地名]
「何年の生まれだね?」
「いやそれが正確にはお答えできないんですよ、刑事さん」
「できないだって?」苛立ちに疑念の交じった問いを投げかけながら、捜査官は脅すような視線を向けた。
「本当なんです、正確なことは言えないんですよねえ刑事さん。私がこの世にやって来た頃は、出生も死亡も教会の書類に記録されていたんです。でも前世紀の中頃[訳註:労働党政権下のアルバニアが「無神国家」を宣言した1967年、及びその前後の期間を指す]に、刑事さんもご存知の通り、教会も宗教施設も何もかも、あの時代の我が国を支配していた全体主義体制のイデオロギーに反するものだとして叩き壊されてしまいました。こうして、それらの廃墟と共に、この私の出生日も失われてしまったというわけです。しかしですね、今は亡き叔父から聞いた限りでは、私は第二次大戦が終わって独裁が始まった頃の何年かの間に生まれたはずだと言うんですよ。つまり、今の私は六十歳を超えているはずです」
「出身地は?」
「ここです、この村です」
「職業は?」
「詩人です」
「つまり無職ということだね」
「私はそんな風に言ったことは一度もありません。一度も、どんな状況でも、自分のことをそんな風に感じたことはありません。私は詩を作って・・・本も出しているんです」
「詩だって!いやはや、まさかシェイクスピアのお仲間とは!なるほどね」取調官の声が更に大きくなった。「君がその本の中でどんなものを書いているのか、是非詳しく知りたいものだね」
「はあ・・・主に詩を、時々は散文もです」
「どういうことについて書いているの?」
「それがどうしたらうまく言えるか分からないんですよ、刑事さんにきちんと分かっていただけるようには」
「分からないだって?我々がここに君を呼んだのは、君に説明をしてもらうためだぞ。それと、念のため言っておくが、どういう同意であれ証言であれ、偽証は最高で禁固五年だ、これは法律で決まっている」
 ソクラトはゴクリとのどを鳴らし、深く息を吸い込んだ。何時いかなる時でも、何もかもが逆さまになり、最後には崩壊するかも知れない、そんな状況に彼は置かれていた。
「いやそんなこと訊かれても、何も正確なことは申し上げられないんですよ、親愛なる刑事さん、[訳註:ちなみにソクラトは会話中ずっと“zoti hetues”と呼びかけていて、直訳すると「取調官さん」なのだが、日本語の語感に合うように「刑事さん」と意訳している]だって自分自身について書く芸術なんて、そりゃぺてんですよ」
 取調官は目をかっと見開き、部屋の隅で記録を取りつつ、容疑者が証言したものを洗い出そうと待ち構えている女性秘書の方に合図した。ソクラトはすっかり落ち着き払って、自身の主張を続けていた。そのだらだらと間延びした声は、タイプライターのキーの上で打ち鳴らされる指先が発するリズミカルな[訳註:原語ではrimikとあるが、恐らくritmik(英語rhythmicに相当)の誤り]音に度々割って入った。
「私たちが精査し記述するのは、人間や社会全体に不安をもたらすところの矛盾や分裂なのです。自意識や、分厚く立ち込める幻覚や、息の詰まりそうな愛に囚われの身となることも珍しくありません」
「君が話すことを聞いていると、私にはむしろ君が狂人に近いように思えるがね」
「そう評価されても全く驚きませんよ。私のことをそういう風に判断する人も多いです。たぶん、私がそういう人達と同じようにものを考えないし、自分を表現することもないし、生活してもいないからでしょう。そんなこと[訳註:「狂人」だと言われること]は全くの間違いですよ。でも大したことではありません。預言者たちはいつだって、こういう仕打ちを受けるものなんです」
 捜査官は鉛筆をテーブルの上に放り出し、ぐっと腕組みをした。
「これは君にとっては真剣にとるようなことではないだろうが」と捜査官は、今度は幾分やわらいだ親しげな口調で話しかけた。「もしよかったら、友人として話をさせてくれないかな。私も君の白髪の男同士で・・・わかるかい?だから我々のこの年齢では、そういう態度は許されないんだよ。今更もう手遅れなんだ、夢を見るには余りにも手遅れなんだよ」
 ソクラトは捜査官をじっと見つめていた。その瞳には、差し向かいで話を聞く中での憐憫の色が読み取れた。彼は幾度も再び語ろうと努めた。彼の声はその冷え切った空間に、やわらかな衣擦れの音のように広がった。
「全て人生とは夢ですよ。今更、自分自身の中にある何かを変えようたってもう手遅れです。私はこの世へと、来る日も来る日も闇に支配されている人の魂に、光を灯すためにやって来たのです」
「もういい、一体全体、それで君は自分が何だと言いたいんだ・・・?」
 ソクラトはすかさず取調官の問いに割って入り、破滅の際に陥るような声で始めたその語りを更に続けるのだった。
「私は、単なる気の迷いで人生を共にすることになった両親のもとに生まれました。或る晩、酔った父が返った先は同級生の女子がいる女子寮の一室でした、そこは父が当時通っていたジロカスタルの高校で、二人は付き合っていたのです。今でも、今この時でさえも、あの石の町では囁かれているんですよ、二人はあの晩、一晩中愛し合っていたんだと。当時の感覚からすれば、これは大いに重大な、罰されるべき行為であり、そのことで高校当局が乗り出して、二人の愛を完全に沈めてしまおうと着手したのです。父は学校を追われ、話によれば北部の鉱山の一つへと飛ばされて、そしてそこの坑道で起きた大規模な地滑りのために命を落としたそうです。母の方も、学校を途中で止めて町を離れ、権力者による闘争と弾圧の余波を逃れ、と或る山村の教会へ身を移すことを余儀なくされましたが、そこで母は赤ん坊を産み、その教会のお勤めをしていたヤニ神父に委ねたのです。それから母は家族と離れ、何処かの繊維工場での毎日の作業に従事することになりました。こうして私はこの世に生を受けた[訳註:直訳「人生にやってきた」]のです、死にもの狂いの闘争が人間も、石造りの家々さえも無慈悲に打ち壊した、遥か遠い時代に。これらは両親の学校時代の友人の一人が私に話してくれて、その人は両親二人ともよく知っていたのですが、しかし残念ながら、もうだいぶ時間が経っているので顔は思い出せないんです、その人の声だけは幾度か記憶の中に再生されるんですが。その後、私の母は南部の町のありふれた銀行員と結婚しました。母の夫になったその人は、自分の敷居の中に私を受け入れようとはしませんでした。年月が経過するにつれ、母と会うこともいよいよ稀になり、母自ら完全に姿をくらました状態になってしまったのです。今はきっと、母は死んでしまったのだろうと思っています、だってもう何年も私の前に姿を現さないのですから。母が私に遺してくれたのはたった一枚の写真きりで、それを私はジャケットの内ポケットにしまっているんです。最後に会ったのは私がまだ子供だった時ですが、母の涙に濡れた顔はそれはもうよく憶えていますよ。しばしば夢の中で、私の前にその輪郭が浮かんでくるのです。そしてずっとそんなイメージと共に生きてきた私は、それでも母の運命や人生をどうこう思ったことは一度だってないんです。そうやって、信仰の砦の中で、蠟燭の炎と香を焚く香りが光きらめく教会で幼年時代の最初の数年を過ごし、最初の教えにも馴染んでいたのに、ヤニ神父が世を去ったことで私はこの世の往来に立つことになったのです。時には、たまたま紹介を受けた親戚のもとに身を寄せ、そこからまた巡礼の旅に出発し、この辺境の地にまで辿り着き、そこで、聖アタナシオス教会[訳註:聖アタナシオス教会(Kisha e Shën Thanasit)はアルバニア中部、エルバサンに19世紀中期から現存する正教会]のイコン画家ヤナチ・ブレグの娘、ロザリナと結婚したのです。この結婚で私は三人の子を授かり、季節の果物と野菜が実る一軒の家の、その軒下で毎晩を集い過ごしていました。その外では、人生の中に凝集されたものの、過去と現在と未来とを巡って、行きつ戻りつし、心を砕き、押し黙り、独り語りにふけるのです」
 ここまで喋って、ソクラトは追憶に首をうなだれ、深く息を吸い込むと、中断していた話を更に続けた。
「このようにして私の運命は書き記されてきました。私は詩人、天と地との子です。ここ数年というものずっと、人生は私にその苛酷な面ばかりを見せてきました。そして人々は己の無知に対してかくも罪がないのです。誰一人、何一つとして、苦痛から魂を解き放とうとする全世界的な意志を妨げることはできないのです。そして、私もまた実に、疎外される[訳註:原語tjetërsojの原義は「所有権が他者に移る」]ことに無力であると感じているのです」
 取調官の血管が踊り、こめかみが激しく脈打ち始めた。
「全くとんだろくでなしだな君は!いかれたエゴイストめ。壊れた頭の思いつきから出てくるような、そんな空想を聞いている暇はないぞ」
「でも私は、背中に全世界を載せていなければならないんです。それなのにあなたは、そのことを理解しようともしない。何故ってあなたは囲いの中へ追い込んでくれる牧人を待ち望む、支配された羊の群れの中の一頭に過ぎないのですから」
「狂ってるな!」と取調官は声を張り上げたが、それでも姿勢を崩さなかった。
「哀れですな!」ソクラトも痛々しく叫んだ。
 取調官はもう何も言わなくなった。肘掛け椅子にぐいと背をもたせ、左に曲がっていたネクタイを締め直した。
「こういう状況では君に言っておかなければならないが、君にとって救いの道は一つしかない。医師の診断書を取り寄せることだ」
「何ですって?!」ソクラトは皮肉じみた声で問い返し、彼自身でも気付かぬうちに身を起こしていた。
「医師の診断書だと言ったんだ、君の錯誤を証明するためのな。率直に言って私は、君の家族が置かれている状況も、そしてそれが、君を助けるために私に出来ることがあるかどうかは分からないが、君にとっては気の毒なことだというのも理解しているんだよ」
「私には、あなた方が気の毒でなりません。そのことで私は深い悲しみを覚えます、だから私は路上へ出て叫ぶのです。これから起こること全てが怖いんです。世界は破滅の淵に立たされている。あなたにはそれが分からないんですか?!」
「おい詩人さん、私の見るところ、君はものを考えることもできなくなっているようだな。君が出した本で得られるものなんて、バナナ売りがウェイターに渡すチップ[訳註:原語bakshish]ぐらいしかないぞ。しかも君は自分の商品を市場に出してくれようとしている出版社に、随分と借金があるな。この件で告発状も届いているんだよ、君には知らせたくなかったんだがね。だがこんな状況では隠しておく理由もない。君は多額の借金まみれで、家も家財道具も蔵書も押収されかねない程じゃないか」
 ソクラトは薄ぼんやりとした目つきのまま、がくりとうなだれた。
「しかし恐らく何時の日か人々は目覚め、そしてこれらのことも確かなものになるでしょう。確かなものになる、と思います」そう語る声は途中までで、熱い涙に目を濡らし、もはや喋れなくなってしまった。
 取調官は警官二人に、傍に来るよう合図した。
「こいつを独房に放り込んで鞭をくれてやれ、正気に戻るまでな!」そうして取調官は、ひたすら消耗させられるだけの、この一連のやりとりを締めくくった。
 警官らは詩人に再び手錠をかけた。今度は一層きつく締め付けたが、それはこの狂人が手錠を外してしまうのではないかと恐れたからだ。そうしておいてから、特に危険な犯罪者を収容するための警戒厳重な独房へと連れて行った。その晩、他の囚人たちは、鞭のうなる音と、警官たちの嘲り笑う声、そして詩人の押し殺したような呻き声を耳にして震え上がった。
 建物の外に夜の帳が下りると、全ては侮蔑の中にかき消えた。
 明くる朝、看守たちは再び、前の晩に詩人が入った独房に入った。ところがそこには誰もおらず、衣服と、外れた鎖が残っているだけだった。看守たちは慌てて探し回った。辺りには干し草花の混じり合った匂いが立ち込めていた。鉄格子の窓越しに、夜明けの陽の光が流れ込んでいた。看守たちは独房の至る所くまなく、干し草の下から上まで探し回ったが、時既に遅く、何をしても無駄な努力だということが分かっただけだった。彼は消えてしまった。
 
 

(つづく)


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